投稿

トルコ①:「オキシデント」担当者

イメージ
  今さらですが、私はアフリカ地域研究を専門としています。現職に着任した際も、ゴリゴリのアフリカ担当として、他の地域のことは知らない、という色がついていて、学生の海外フィールドワークの担当もセネガルのみが私のテリトリー。なかなか心地よいものでした。 ところが、同僚の異動のことなどがあり、2023年よりトルコも私の担当に。担当できる人を消去法的に選んでいくと、イスラームのことだったり、西の方だったりという理由で私しかいなかった。ほかにもヨーロッパをご専門にされているお二人も共同担当ということになってはいるのですが。 とにかく担当になってしまったので、後付けでも勉強するしかありません。まずは、学生の興味関心を聞きながら、私も勉強する、というスタンスで一緒になって本を読んだり、人の話を聞いたり、ということをしていくつもりです。さすがに、今から専門家になるのは難しいとしても、ある程度の知識は蓄えていこうと思います。 まずは、ブログ上で少しずつノートを作っていこうと思います。長い間、世界の中心にあり、地理的にもアフリカに近いところ。さらには、イスラームの地域でもあり、これまでのアフリカ研究に厚みが出るのは間違いないありません。

【ブルキナファソ調査】国旗の意味するもの

イメージ
  2024年2月27日~3月4日までブルキナファソに滞在しました。前の投稿でビザのことを書きましたが、観光ビザの発給停止がどのようなことを意味しているのか、もしかすると、政治的な意味も含まれているのではないかと勘繰っています。 ワガドゥグの一部の店舗には国旗が据えられていることがあります。多くがブルキナファソの国旗なのですが、アメリカファッションの洋服屋には星条旗、フランスのトリコロールがかかっているところもしばしばみることがありました。 こうした国旗事情、2023年9月の前回滞在の時に大きな変化に気が付きました。星条旗やトリコロールが掲げられていた店の国旗の多くが、ロシア国旗に代わっていました。昨年時点では、「トリコロールを90度回転させたらロシア国旗になるだろ?」という冗談が通じたのですが、今回、一切のトリコロールが姿を消しました。NHKの報道でも、このことは言われています(関連記事にURLあります)。そして、ほとんどの交差点(ラウンドバウト)の中心には、マリ、ニジェール、ロシア、時に北朝鮮の国旗がはためいていました。 友人によれば、こうした交差点では、夕方になると若者たちがお茶を飲んでいるとか。確かに、炭の後やらお茶の箱やらがちらほらと見える。こんなところで何をしているのだろう…もしかしたら、新たな友好国の国旗に囲まれながら熱く政治を語っているのでしょうか。 街中からなくなったフランス、新たに増えるロシア、この流れは政治的なものだけでなく、私が調査をする人たちからもよく聞こえてきたものを象徴しているように思います。歴史的なフランスの所業、独立後も続いた支配、民衆の生活にもしばしば見え隠れするものでした。ただ、ここで注意しておかねばならないのが、交差点に掲げられている国旗に交じり、現大統領のトラオレの写真とそれを賞揚するテキストが掲げられていること。もしかすると、こうした関係性を可視化するため、一定の交差点の国旗は戦略的に用意されたものなのかもしれません。 フランスに代わり影響を強めていると言われるロシア、盟友のマリ、ニジェールとの連帯、北朝鮮の位置づけがいまいち見えてきませんが、こうした新たな関係はこの後、どのようになっていくのでしょうか。 【関連記事】 現代アフリカ地域研究センター 「 ブルキナファソがフランスとの防衛協定を破棄 」(2023年1月26日)

ブルキナファソのビザ(失敗談)

私の申請が遅かった…間違いないのだけど、Expressで申請したのにビザが、手元に送られてきたのは、それから1週間後のことでした。 出発前日、祝日、週末が続いたこともあり、ビザ未取得のままの出発が決定しました。 長年お世話になっている道祖神さんの担当者にアドバイスを仰ぎ、On arrivalでの取得を目指すことになりました。関門は日本でチケットが出るか、ブルキナファソでビザ発給されるか、と思われました。 第一関門は、「お金払ってるし、今まででちゃんと取れてるから大丈夫」と言ってなんとかごまかして通過してトルコに到着。 トランジットを終え、出国カウンターを通過して搭乗口に到着し、次の関門でのシュミレーションをしていました。 ところが… 搭乗口の係員からビザの有無を問われ、持っていない、というと、係員が確認を始める。嫌な雰囲気が漂い始める。事前に教えていただいていた Timatic を確認し始めたので、日本でもそれを確認してもらって、申請は完了しているので、入国時に入手できると聞いている、とちょっとブラフを入れてみても、最終的に確認が取れないため、「搭乗不可」という結論になりました。 そこから、ブルキナファソにいる大使館勤めの知人を通して、事情を説明し、サポートをお願いする。というのは、元々、ブルキナファソのビザは、大使館の領事の業務でしたが、2023年2月から申請方法が変わりE-Visaのみとなったためで、つまり、本国の警察の管轄となったので、現地での調整が必要なわけです。ビザ情報を書いておきますが、前回渡航の際に大使館にも問い合わせたところ、書類に不備があると、申請料は返還されない…とか、2023年2月から 「観光ビザ」の発給 を停止しているとか、治安上の問題があるとは言え、旅行しにくくなりました。 閑話休題。その日はトルコ再入国も許されず、空港内のホテルに宿泊(×万円やられました…ものすごく高い)することにしました。ちょうど締め切りを過ぎた原稿があったので、そちらを仕上げる時間に充てることとし、ブルキナファソの友人づてで、大使館から警察に問い合わせてもらい(こうしたことは大変助かります)、朗報を待ちます。 翌日、チェックアウトの時間ギリギリまで空港ホテルで過ごし、死ぬほど飯を食べ、最後の最後までメールをチェックしても、結局E-Visaは届かず、鬱々としながらサポー

【調査】関東大震災100年と在日朝鮮人

イメージ
ちょっと時間が経ってしまいましたが、昨年11月2日、3日と東京に出張した時の話を書きます。めでたいはずのお正月に起こった能登半島の大地震。今も多くの方が厳冬期の厳しい避難生活を送られています。避難生活を強いられている方の命を守ることが最優先されることをお祈りしています。 地震大国である日本は、21世紀に入る前後で見ても震度7以上の地震は、阪神淡路大震災(1995)、十勝沖地震(2003)、新潟中越地震(2004)、東日本大震災(2011)、熊本地震(2016)、北海道胆振東部自身(2019)そして、年始の能登半島地震と非常に頻繁に発生しています。 東日本大震災以来の激甚大災害となった能登半島地震、僕は久しぶりに日本で過ごした年始の多くをTwitterを見ていました。年末からの芸能人の話題や裏金事件の話題、そして、震災に対する現政権の対応の遅さを指摘するコメントが混在している中、気になったのは、特定のクラスタによる、「デマ」でした。外国人が暗躍し、日本社会を壊滅させようとしている、というニュアンスのものが、早速炎上していくわけですが、こうした「デマ」が湧いてくること自体が問題です。 100年前、関東大震災が起こった際には、多くの朝鮮半島出身者がこうしたデマにより、虐殺されました。今回訪れたのは二つのイベント。 まず、高麗博物館について。 新大久保というか、歌舞伎町にあるこの施設。10代後半~20代にかけてこの辺をうろうろしていましたが、こんな博物館があるなど、思いもよりませんでした。ビルのいちフロアにこの博物館はありますが、常設の朝鮮半島の展示がありますが、この日は「関東大震災100年―隠蔽された朝鮮人虐殺」の特設展が開催されていました。いつまでリンクが見られるのかわかりませんが、この展示は、 淇谷が描いた 「関東大震災絵巻」の初公開が目玉展示。当時の現場を見た画家が描く絵には、「日本人」と朝鮮人に対する、人びとの接し方の違いが克明に描かれていました。ほかにも、文献資料や写真、絵画資料から、当時の日本における朝鮮人の位置づけを示されていました。 翌日は、横浜の日本新聞博物館へ。「そのとき新聞は、記者は、情報は―関東大震災100年」という企画展が開催されていました。この展示は、関東大震災発災の際の新聞報道に関するもので、発災当時、多くの新聞社屋が崩壊したものの、地方の記

第2回アフリカ納豆サミット「〜五感で比べてみよう、京都と西アフリカの納豆〜 in 藤原食品 × ムトーヨータドー〜」 (3月19日)

イメージ
  納豆。日本固有の食文化と思われがちだが、世界の各地で食され、アフリカに至っては、納豆の一大消費地だ。遠く離れた地で育まれた事象が、文化的共通点として浮き上がることは大変興味深い。「アフリカ納豆サミット」では、アフリカで展開される豊かな納豆文化を紹介し、アフリカと日本の納豆文化の類似点やアフリカ納豆の文化について考えます。今回は、京都に拠点を構える藤原食品さんと今日納豆についてお話をお伺います。 また、トークの後には、アフリカ納豆と京納豆の食べ比べがあります。   ◎予定メニュー ・鯉のスンバラ焼き浸し ・スンバラ飯 ・スンバラの料理 ・鴨川納豆の料理 ・京納豆の料理   日時:2024.03.19(火) 18:30 - 21:00(18:15開場)  場所: 藤原食品×ムトーヨータドー 参加費 4,000 円 / 学生 2,500 円(食事代込 / 日本とアフリカ納豆の豆お土産付き) お申込み:https://africanattousummit.peatix.com/view?fbclid=IwAR0JfJnubfyNzOu6QqUbeBGvNOLwlHH3fmJ2tGtjW8Q3awCCmISpJAXNKdM お問合せ:株式会社bona 担当者 奥祐斉 info@bona.world

15年ぶりに訪れる

イメージ
2007年3月@ゴレ島にて 2023年9月ゴレ島にて 書きかけの記事が昨年11月のもので、こちらの記事が昨年9月のものです。時間が前後してしまいますが、気にせずに書きたいところから進めます。 毎年恒例のセネガルプログラム。毎年、10日前後のプログラムを考えてスケジューリングをします。中に絶対に外せない訪問地があるわけですが、ゴレ島はアフリカの植民地の歴史を考える上でその筆頭格と言えるでしょう。 僕がゴレ島を訪れたのは、2007年3月(2月だったかも…)のこと。1泊でゴレ島を訪れたのですが、世界的な観光地ということもあり、瀟洒なホテルやオーベルジュはなかなかの値段がしていたので、とにかく安いところを探し、たどり着いたのが島の一番奥、小高い丘の海側の裾野にあるオーベルジュでした。丘の上にはオランダが作った砲台が残っており、オーベルジュは塹壕の跡地を利用したものだった。確か12,000Fcfa。格安でした。 実は、このオーベルジュ、当時私が研究していた「ラスタマン」の親分Ras Mahaが経営していると聞きつけたこともあり、値段だけでなく、大変ラッキーな宿泊となりました。この話はどこかで書いたので、この辺にて。 それから15年経った昨年9月。学生を連れて何度目になるかわからないゴレ島訪問となりました。ガイドに雇った青年が連れて行ってくれたのが、この場所でした。ガイドにここに来るのが10数年ぶりで、オーナーのRas Mahaはその時に会っている。彼は元気か?と尋ねると、相変わらずオーベルジュをやっているというので、ぜひ会いたいという旨を伝えると、少し年を取ったが、元気そうな姿をみせてくれました。ラスタ思想に傾倒していたこともあり、元々ナチュラリストでしたが、15年ぶりのRas Mahaは健康的なナチュラリストに変貌していました。オーベルジュも大きく、きれいになっていて、来年度のプログラムでは、こちらでお世話になることにし、短い再開を果たしました。 僕も等しく15年の歳月が流れたわけで、昔、当時ご一緒したバックパッカーに撮ってもらった写真があるのを思い出し、同じアングルで写真を撮ってもらいました。15年前に僕は精悍で、大胸筋あたりの盛り上がりがわかりますが、今の僕は、といったら、大胸筋どころか腹が出てる…撮らなければよかった、などと一瞬思いましたが、これも15年の歳月の結果。

明けましておめでとうございます

イメージ
2024年の新年は、北陸の大地震や羽田のJALと海保航空機の事故という、「おめでとう」という新年の挨拶を憚られるニュースから始まりました。両件の犠牲者に哀悼の意を表し、特に北陸の大地震の被災者のより多くの方が救出され、より早い時期に日常を取り戻せますことを切に祈っております。 さて、2023年を少し振り返ります。 仕事面では、本務校の新学部設立から3年目となり、今年度ですべての授業が出そろい、この後の年間スケジュールのベースができた一年でした。新しいこともたくさんありましたが、役職を外れたこともあり、少し気持ちに余裕を持つことができ(それでも追いつかないことが多かったですが…)、淡々と過ぎていった一年でした。淡々と…ではあったのですが、昨年の大きな出来事としては、5月頃からジム通いを復活させ、食事制限を合わせた結果、10㎏ほどのダイエットに成功しました。最近一進一退状態ですが(笑)。体力的な衰えは不可逆的なものですが、腰痛やらなんやら、ちょっとした不調が解消できたように思います。 貴一朗は元気にスクスクと。まだまだかわいい盛りで、甘えん坊は変わらずも、少しずつ一人で行動することも増えてきました。ウィークデイは朝いやいやおきながらも、毎日学校に通い、週に一度の水泳と習字を続けています。あんまり成績は良くないみたいですが、みんなそれほど気にしていません。10月頃からは、お小遣い帖をつけ始めました。簡単な家計簿を作り、お手伝いをすると50円渡し、少したまると自分のお金で何かを買う、ということができるようになりました。 迎えた2024年。今年50を迎えるにあたり(あんまり関係ないですが)、一つ大きな仕事に取り組んでいきます。 とりあえず年度内は、2月にイベントが4件あり、若干バタつきますが、必要なタスクをこなします。4月以降のことは科研費の状況もあるので、修正は必要ですが、一つの科研費が終了し、新規のプロジェクトが2つ始まるのではないかと思っています。今年度は私が代表者を務める科研費プロジェクトが最終年度を迎えるほか、もう一つも最後の年になり、成果物の準備に若干時間を取られるはずです。この辺の作業と重ねたりしながら、博士論文を仕上げたいと思っています。何回も「書く宣言」をしていますので、「まだ?」と言われます。ずっと心のどこかに引っかかりを持っています。こんな気持ち悪さだけ